Profile

PROFILE
自己紹介

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自己紹介

ほしの

  • 1985年 東京の下町生まれの愛知県在住
  • 美術大学卒業 (中学〜高校も美大附属)
  • 弓道二段 20年ぶりに再開を密かに検討中
  • 人のお話を聞くのが大好き!

就業履歴

  • 和風喫茶店(お運び)
  • 学習塾(小・中学生向け塾講師)
  • 百貨店内 婦人服販売
  • 美術館(広報・SNS)
  • テレフォンアポインター

子供たちが小学生になったことで、今までとこれからの人生を見つめ直し、デザインを再勉強。
さらにライティングとマーケティングも猛勉強。
採用媒体のテレアポをしていた経験から、「こんなに困っている方がたくさんいるなら、私のできることでお力にならなくっちゃ!」という下町ならではのお節介な気持ちで、フリーランスとして奮闘中。

REASON
私が採用に詳しい理由

REASON
私が採用に詳しい理由

「まさかホームページを作っただけで、欲しい人材の採用が叶うなんて!!」 

そんな夢みたいな未来を
あなたに迎えていただくために、私のサービスはあります。

私はWEBデザイナーを目指すかたわら、採用媒体を商材とするテレアポの仕事をしておりました。
複数の面接を受けた中、働くことを決めた会社には明確な理由があります。

1、取り扱う商品(採用媒体)が魅力的であったこと
2、事前に働く際の条件と相談先の提示がはっきりあったこと


(逆にお断りした会社にも理由があります。
1、商品を売ることでお客様のお役に立てるという未来が私の中で見えなかったこと
2、会社の目指すビジョンに共感できなかったこと)

私の取り扱った採用媒体はとても素晴らしいものでした。
採用にお困りの方に心からおすすめできるものであると、今でも思います。

ただ、どうしても料金が高かった。
そして、パーソナルな小回りを利かせたサポートは難しい部分もありました。

「必要としてくれる方のお力になりたい」という気持ちを強く持ち、架電すればするほどお力になれない方との出逢いも多くなり、無力感から悲しい思いをすることも増えてきました。

お困りであることを知ったのに、何もできずにこのまま放っておくなんて・・・
そんなことはできない!!どうしたらいいんだろう、と私は考えるようになりました。

テレアポと並行して学習していたWEBデザイン。
これを使って、私にできることで採用媒体では難しかった方のお役に立てるのではないだろうか、とある日気づいたのです。

ただ、その時点での私ではまだまだ力不足。

まずはありとあらゆる「求人サイト」「採用サイト」の中身や導線を100以上、研究しました。
さらに、マーケティングとライティングを学び、サイトの中身や導線を見る目が研ぎ澄まされていきました。
私ほど、この採用市場を研究し尽くしたフリーランスのWEBデザイナーは他にいないでしょう。

そして、研究の過程で「とある法則」を発見したのです。
この法則はあなたの採用活動を成功へと導けるものであると確信しています。

なぜ私が採用に詳しいのか?

採用媒体のテレアポの経験からお困りの方の生の声に突き動かされたからです。

私も最初は他のWEBデザイナーと同じく、採用のことを全く知りもしませんでした。
ですが、テレアポという仕事を通じて、1000を超えるお困りの方の声を生で聞くという貴重な機会を得たこと。
そこから、採用媒体の現状のサービスでは手の届かない部分がある現実を知りました。
この経験から困っている方のお役に立つ方法を考えた結果、「ホームページを使ったWEB戦略」を採用に応用する方法を手に入れました。

あなたの採用活動の成功の為に、
私の持つ全ての力をお伝えし、尽力する準備ができています。

THOUGHTS
私が大切にしている想い

THOUGHTS
私が大切にしている想い

私は仕事だけでなく、日常から人と接する際に大事にしていることがあります。

それは「目の前にいる人の為に自分ができる最善を尽くす」こと。
このように考えるようになったのは、成人するまでに3人の人間の死を体験したからです。

最初の死

私は東京の下町生まれの下町育ちです。
機械製造業の会社を営む父と母、弟、私の4人家族でした。

幸せな毎日で、「死」というものを意識したことすらなかったと思います。
4人家族が3人家族になったのは、私が小学2年生の頃。

父が病気で他界しました。

私にとっては突然でした。
でも今振り返ると、どう考えても闘病中の姿でしたし、気づかなかったことが不思議です。

一時退院した父が私のピアノの練習を聞いて、その後、急に病院に戻る・・・となった時も「私のピアノが下手過ぎて、酔っちゃったのか!」と一人で納得していたくらい。
本当に能天気な子供でした。

12月のある日、学校で過ごしていると急に先生から理由も言われずに
「すぐに家に帰るように」と言われました。

帰り道の風景を今も思い出せます。
「なんでだろ〜。パパが退院したのかな?」くらいにしか思っていませんでした。

私が自宅に帰ると親戚中がもう我が家にいて、私に話しかける母を見守ります。
この段階でも「パーティーかな?」としか思えず。

母から父の死を告げられて、大泣きしました。

意外にも「死」はすっと理解できました。
なぜなら、母は「死」をテーマにした本を与えてくれていたから。

私たち姉弟があまりに幸せ過ぎたので、少しでも死を感じられたらと
幼稚園生の弟には「100万回死んだねこ」
小学生の私には「シロは死なない」を、理由は言わずに渡され読んでいました。
「この本を本屋さんで選んでいる時、どうにも涙が出てきてお店で泣いた」と少し大きくなってから、母が話してくれました。

父の死後、私は後悔しました。
もっとお見舞いに行ったら良かったな。
もっとお話しすれば良かったな。
最後に会った時の顔、わからないな。

「普通」の毎日というのがどれだけ尊いものなのか、私は知りました。

今この瞬間の私が、その人にとっての最後の私になるかもしれない。

あとから後悔しないように、
一人一人を大切に、
最高の笑顔で全力を尽くす
という今の私の根っこはここで生まれました。

2つ目の死

小学生の時に通った絵画教室の先生のことが私は大好きでした。
私が絵を描くと先生はいつもオーバーに喜んで、とにかく褒めてくれてました。
面白い先生で、みんな絵を描くよりも先生とワイワイする為に通っている雰囲気。

先生ご夫妻は元々デザイナーで、有名なCMを手掛けたとか。
私は先生にとても憧れ、先生の母校の附属校である美大の附属中学を受験することを4年生で決意。
受験勉強をスタートしました。

私はもともと勉強は苦手でしたし、地を這うような偏差値を叩き出し、志望校合格はかなり厳しい状況でした。
それでも、志望校を変えずに合格を目指し続けられたのは、先生に合格した自分の姿を見せたかったからです。

6年生の2月、努力が実り、無事に合格を果たしました。
先生はとても喜んでくれました。

でも・・・残念ながら、先生に制服姿は見せられませんでした。
先生は私の合格の後、制服姿を見せる前に病気で亡くなってしまったのです。

受験勉強の家庭教師を先生の息子さんにしていただいていたので、先生がご病気なのは、薄々わかっていました。
だから、家庭教師をしてくれた息子さんも必死に教えてくれたし、私も必死に勉強しました。
文字通り、本当に必死でした。

「絶対に、絶対に、受からなくちゃ」と思っていたので、合格できた時は嬉しいとともに、本当にホッとしました。

もしも、私が受験勉強をサボって、不合格だったら。
一生後悔したと思います。

自分のできることで相手を喜ばせたい、この気持ちを原点としてパワーに変え、最善を尽くす喜び。
私は今もこれを大事に仕事をしています。

3つ目の死

高校3年生の頃、母方の祖母が他界しました。
祖母の死に関して、私は後悔することは1つもありません。

祖母が余命宣告を受けたその日
「今からおばあちゃんの家に引越します!学校にはそこから通って」
と母に言われました。
自宅から1時間半ほど離れた祖母の家に、車に乗せられるだけの荷物を乗せて移動しました。
父の死の経験があるので、私も弟も文句一つ言わず行動しました。

祖母の家でのその時の半年間は語り尽くせないほどの思い出ができ、今から思い返しても「ああすれば良かった」と後悔することはありません。
最善を尽くせたと言い切れる。

この清々しい気持ち。
生の終わりを迎えるまでの時間をともに過ごしたことにより、祖母に対する想いがとても強くなり、私の中で今も生きています。

私は仕事では「ほしの」と名乗っていますが、これは本名ではありません。
母の旧姓であり、祖母の苗字です。
フリーランスで活動する際に、祖母の生きてきた姿や仕事に恥じない仕事を私もしようという決意から「ほしの」と名乗ることを決めました。

祖母は普通の優しいおばあちゃんではありませんでした。

都内近郊の百貨店に3店舗の印鑑屋を出す経営者でした。
百貨店の店頭にもずっと社長として立っていました。
根っからの商売人ではなく、元々は戦時中の結核の方を集めた病院で看護師をしていました。
結婚はせずに、病を持つ方に人生を捧げたいと考えていたそうです。

様々なことが重なり、印鑑屋の私の祖父と結婚。
40歳を過ぎて伯父(母の兄)と私の母を出産。
そこから、私の母が3歳の頃に祖父が他界。

怒涛の人生です。

助けてくれる実家もなく、小さな子供二人を育てあげなければならない。
腹をくくって社長になったそうです。

印鑑のことなんて何も知らない女社長がどんな扱いを受けたのか。
昔からいる社員に頭を下げて教えを乞う日々。
バブルの時代、百貨店とのやり取りも大変だったと聞きましたし、私も百貨店で働いていたので祖母の苦労をリアルに想像できます。

苦労や大変なことばかりでも、祖母は前を向いてシャンとしていたそうです。

「どんな辛く苦しい時であろうと ほしの の人間ならば、気高くあれ」

これは、母がたまに言うセリフ。
祖母の仕事を手伝っていた母が祖母の背中から学んだことです。
この精神は私にも受け継がれています。

私は嘘偽りなく、最善の道を目の前の方の為に追求します。
それは、私が ほしの の人間だからです。

私の想い

私は3人の大切な人間の死から、「目の前にいる人の為に自分ができる最善を尽くす」ことが当たり前と考えるようになりました。

実は6年前、実家の建て直しの為に父の書類や日記を処分する前に、私は全てに目を通しました。
家族に対する愛情、仕事や経営に関する悩み、親族への気持ちや出来事など、たくさんのことが記されていました。
経営者の持つ、重い重い荷物の中身を私は初めて知り、自分の無力さに申し訳がなさ過ぎて泣きました。

ですが、
今の私は泣いているだけではありません。

様々な経験を重ね、デザインとマーケティング、ライティングを習得したことで、ビジネスのお手伝いができるようになりました。

残念ながら、事業を助けたいと思う父はもういません。

私の制作物を見て、大笑いで喜んでくれる先生もいない。

女性経営者としての姿を私に示してくれた祖母もいない。

でも、だからこそ、この3人に見せられなかった分も含め
私は私のできることで「目の前にいる人の為に自分ができる最善を尽くす」とお約束します。

求人採用のお悩みはもちろん、その他のお悩みも
あなたの重たい荷物を少しでも軽くできるお手伝いができたら嬉しいです。

ORIGIN
SOBRIO designの由来

ORIGIN
SOBRIO designの由来

「SOBRIO(ソブリオ)な人になりなさい」

私は新卒で株式会社ジュンアシダに婦人服の販売員として入社しました。
この言葉は社長である芦田淳から本社研修の際に直接いただいた言葉です。

「Sobrioはイタリア語。派手すぎず、上品で、控え目だが地味ではない。
私は皆さんにこのような人になって欲しいと思っている」

先生からのお話しがとても印象的で心に残っています。
(社員は芦田淳のことを「先生」と呼んでいましたので、ここでは「先生」とさせていただきます。)

年に数回、先生からお話しをいただく機会がありました。

先生の考える「美」とはその人の内側から滲み出るもの。
お客様はあなた達よりもステージの高い方々なのだから、上辺だけでは何の意味もない。
外側だけでなく、知性、教養、心の美しさなど全てを磨くように。
日常にある輝きや美に目を向けて、気付ける心を養いなさいと言われました。

私のこれからの人生、どのように生きたいか。
また、どのような姿勢でお客様と接したいのか。

先生の言葉に答えがありました。

ジュンアシダに勤め学んだこと、これは私の人生の宝です。

就職する際に大学の就職課の先生に言われたのです。
「アシダで働くのは求められるものが高く、とても大変だと思う。でも、もし2年頑張れたら、本当にどこでも紹介するよ」

私がジュンアシダを知ったのは中学生の頃。
母が仕事で着る服を買う為、自宅に年に2回カタログが届き、「デザインの勉強になるから見てみたら?」と私にカタログをくれたのです。

当時、私は個性的な友人達が多い学校にいたこともあり、個性的であることが何よりも大事だと思っていました。
作品も服装も、性格もです。
私には爆発するような個性はありませんでしたので、なんてつまらない人間なのだろうと常に自分を卑下していました。
でも、爆発するような美はどうにも私と合いませんでした。

そんな私は先生の作品(洋服)と出逢い、衝撃を受けました。

どこまでも整えられた美。
シンメトリー。
またに加わる遊び心。

全てが光り輝いて見えました。

ジュンアシダに就職でき、先生と同じ空気を吸えたというだけで幸せでした。

さらにここで得られたものは、幸福感だけではありません。

社会人としての心構え、プロの販売員としての自覚と行動。
全てを売り場の先輩方からの日々の指導と本社での研修で得ました。

販売員の仕事は、お客様に良い接客をし、婦人服を販売すること。
さらに「ブランドのファンを増やす」、それだけでは足りません。

「あなたに会いにきたのよ」「あなたから買いたいわ」という自分のファンになっていただく接客が求められます。
現状の自分に満足することなく、一歩先を常に目指すように厳しく言われました。

どうしたらファンになっていただけるのか、先輩方の接客を見たり、相談しアドバイスをいただき、私なりに解を得ました。

的確なファッションの提案やお直しの技術はもちろん重要です。
ですが、お客様が求めているのはそこではない。

それ以上に大事なのは「心」。
全てのお客様のことを想い、心からの行動をすること。
心は何にも変えられない価値があり、心を込めた接客がお客様を動かす。


私も、たくさんの技術、戦略を基に心を込めた接客をすることで、「あなたに会いにきたわ」とお客様に声をかけていただける販売員となることができました。

退職して10年以上経ちますが、今も連絡を取り合うお客様と出会えたこと、本当に光栄に思っています。

フリーランスとして活動するにおいても、お客様と心を通わせて仕事をしたいと願っています。

そして、お客様に輝かしい未来を手にしていただく為に、
私自身が目立つのではなく、お客様の事業に寄り添い、成功をサポート
する。

私の想いの全てが「Sobrio」には詰まっていると考え、屋号を「SOBRIO design」としました。